そして、だからこそアイヌの文化にも出会えたわけですが。
以前、図書館でアイヌ文化を学ぶための
教科書を見つけたと紹介しましたが、
(右から小学生用、中学生用、教師用指導書)
↑↑
そこで知り得たことをこれからちょこちょこ、
このブログで書いていこうかなと思います。
といっても簡単にアイヌ文化に関することを書いていくだけなので、
参考にもならない程の内容だと思います(;´д`)
アイヌ文化についての私用メモのような感じですね。
------なのですが、
アイヌ文化に関することを書くと銘打っておきながら、
今回はちょっとアイヌに関することと脱線した話を。
「なんじゃそりゃ!?」ってつっこまないで下さい〜!
『アイヌ語が元になっている北海道の地名について』
教科書内に書かれていることを読んでいた時に、
とある事実に衝撃を受けたので
今日はそのことを書き留めたいと思いまして!
北海道の地名の多くはアイヌ語がもとになっていますが、
その中には本州などから移ってきた人たちの出身県から付けられた地名や、
その地を開拓した人の名前、苗字などから付けられた地名があります。
その例が載っていたのでいくつかここに。
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〜*アイヌ語が元になっていない北海道の地名*〜
・旧鳥取市(釧路市)
鳥取県出身の士族(もとの武士)が集団で移住したため
・北広島市
広島県出身の人たちが集団で移住したため
・伊達市
仙台藩の亘理(現在の宮城県亘理町)の領主だった、
伊達邦茂(だて くにしげ)が家来と一緒に移住したため
・仁木町
徳島県から移住した人たちを
仁木竹吉(にき たけよし)が先導して、土地を切り開いたため
( アイヌ民族:歴史と-現在未来を共に生きるために- 参考)span>
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と、いろんな例があります。
きっとこのほかにもこのような地名の由来があるのでしょうね。
中でも私が驚いたのは仁木町のことです。
どうしてって思うのでしょうが、それは単純な理由からです。
私の出身県だからですっ!!
それで、とても興味が湧いて
仁木竹吉(にき たけよし)という人物や
北海道の仁木町について調べてみました。
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〜*仁木 竹吉(にき たけよし)*〜
・天保5年3月17日(1834年4月25日) 〜 大正4年(1915年)8月3日
・北海道開拓者。特に現在の北海道余市郡仁木町の開拓に従事し、
その町名の由来となった。
・阿波国麻植郡児島村(徳島藩。現在の徳島県吉野川市)出身。
・仁木家は藩の特産である藍製造を家業としていた。
【仁木開拓までの道のり】
*明治08年(1875年)1月〜北海道開拓移民の募集の許可を申請。
《その理由》肥料の価格上昇、吉野川の水害などによって
急増した貧民の救済のため。
また同国出身の元開拓使官吏・岡本監輔の影響を受けたため。
*明治08年(1875年)3月〜北海道へ渡る。
*明治08年(1875年)4月〜道内巡回を開始。
《巡回経路》最初に静内郡で旧主・稲田邦植とその家令・内藤弥平を訪ねる。
次に有珠郡の伊達邦成・田村顕允・鎌田惣五郎と会って相談。
その後、亀田郡七重村にあった七重農業試験場を視察。
それから、檜山郡・津軽郡・久遠郡・瀬棚郡・
岩内郡・古宇郡・古平郡・余市郡・小樽郡を巡回。
*明治08年(1875年)12月〜札幌に戻る。
*明治09年(1876年)〜藍の種子を取り寄せて試験的な栽培を開始。
「北海道藍・煙草・菽麦拡張論」を開拓使へ建言した。
*明治10年(1877年)〜大阪府で朝陽館主・五代友厚にインド製藍法を学ぶ。
*明治11年(1878年)〜北海道 静内郡にて藍の製造を開始。
*明治12年(1879年)〜東京府の開拓使へ北海道藍草産殖の建白。
*明治12年(1879年)3月〜その作付けと技術教授の許可を取り付け。
*明治12年(1879年)5月〜現在の高知県・徳島県にて北海道移住者を募集。
*明治12年(1879年)11月〜101戸・361名の開拓移民を率いて
北海道余市郡へ入植。
*明治13年(1880年)3月6日〜その功績により竹吉によって開拓された一帯を
彼の姓に因んで「仁木村」とする布告。
【後半生】
仁木村の開拓に尽力したが、
開拓移民たちから竹吉らの横暴を訴える騒動などがあり、
勧業課から説諭を受けるなどの処分を受けた。
だが村内での対立は改善しなかったようで、後に竹吉は仁木村を離れている。
*明治13年(1880年)〜再び徳島へ戻って移民を募集。
しかし、その騒動が原因で翌年には頓挫する事になる。
*明治15年(1882年)〜北海道 瀬棚原野で新たに竹吉村を拓いている。
*明治19年(1886年)〜北海道 倶知安原野を発見し、その地方の開拓に尽力。
その後、再び仁木村の重鎮として呼び戻される。
*明治21年(1888年)〜三井物産との間に委託販売の仲介に協力。
*明治44年(1911年)〜自らの回想録である「仁木竹吉翁遺稿」を執筆。
*大正4年(1915年)〜81歳で没。家督は長男の仁木豊吉が継ぐ。
(※フリー百科事典 ウィキペディア 参考)
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〜*仁木町について*〜
北海道の後志総合振興局の北部に位置し、果樹栽培が盛んな町。
【歴史】
*1879年(明治12年)11月〜仁木竹吉(にき たけよし)ら360余名が
徳島県(現在の徳島県吉野川市)から入植。
*1880年(明治13年)〜仁木村が成立。(仁木町の名は仁木竹吉にちなむ)
*1883年(明治16年)3月〜山口県からの移民を中心大江村が成立。
(大江は長州藩を支配した
毛利氏の祖先とされる大江広元にちなむ)
*1899年(明治32年) 〜大江村から赤井川村が分立。
*1902年(明治35年)4月1日〜仁木村・大江村・山道村が合併。
二級町村制の大江村になる。
*1915年(大正4年)4月1日 〜大江村が一級町村制を施行。
*1964年(昭和39年)11月1日 〜大江村が改称して町になり、仁木町になる。
【姉妹都市】
*1974年(昭和49年)5月〜仁木町と川島町(徳島県)が姉妹町の盟約に調印。
*2004年(平成16年)10月1日〜川島町合併にともない解消。
徳島県の川島町が仁木村を作った仁木竹吉の出身地にあたることから、
昭和49年に姉妹町になったが、
川島町が合併して吉野川市の一部になったことに伴い、
平成16年に姉妹町関係は解消になった。
(※フリー百科事典 ウィキペディア 参考)
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ほかに、いろんなところで調べてみると、
1975年(昭和50年) 8月に、
姉妹町の川島町(現吉野川市)から阿波踊り親善一行が来町。
1989年(平成元年)9月に、
第一回の全道阿波踊り大会が仁木町で開催される 。
とあって、
「第一回の全道阿波踊り大会とは何ぞ?」と思って調べてみたら、
毎年北海道の各地で開催している阿波踊り大会があったんですね!?
去年の2014年開催で26回目になるらしく、
徳島県から阿波踊り連の人たちも来て、
本場の阿波踊りを披露しているのだとか。
遠い北の地で阿波踊りが毎年開かれていたとは、
・・・そんなこと全然知りませんでした。
ちなみに阿波踊りとは、
徳島県(旧:阿波国)を発祥とする盆踊りです。
日本三大盆踊りであり、江戸開府より約400年の歴史がある。
日本の伝統芸能のひとつと言われています。
それから、北海道には『さっほろ五郎連』という、
札幌市北区 あいの里 を拠点 に活動する「阿波おどり」連があるそうです。
それにも驚きでした!
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〜*『あいの里』について*〜
あいの里地区は明治初期、
徳島県からの開拓者が藍栽培を広げたが安価な化学染料に押され徐々に衰退。
明治中期には藍畑が姿を消す。
その徳島の名産 藍染の「藍(あい)」と「愛」をかけて名づけられたのが由来。
〜*『さっほろ五郎連』について*〜
札幌市北区あいの里を拠点 に活動する「阿波おどり」連。
平成5年8月に新興住宅街である札幌市北区あいの里の
住人たちが地元を盛り上げようと設立。
以来、約20年間活動している。
120年前にここ「あいの里」を切り拓き、
当時、原野だったこの荒地で徳島の名産「藍(あい)」の栽培を成功させた
滝本五郎さんの名にちなんだのが名前の由来。
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このように北海道に阿波踊りの連があるのには本当に驚きました。
それも五郎連だけではなく、道内には30以上の連があり、
約400人が阿波踊りを踊っているらしく、
札幌をはじめ、仁木町、岩見沢、帯広、新ひだか町、倶知安町、風連町などにあるようなのです。
札幌市内だけでも10ほどの連があるのだとか。
各連の人数は決して多くなくとも、様々な行事に協力して盛り上げているみたいですよ。
あ、そういえばですね、
「徳島県民は誰でも阿波踊りが上手に踊れる」みたいなことを、
昔に県外の方から聞いたことがあるのですが、
いやいや・・・・・・踊れんけんな(←阿波弁です)
女踊りのあのしなやかな手つきとか、
男踊りのあの激しい足の運びとか、
あんな上手に踊れませんから〜(T▽T)
私が阿波踊りを踊ったのは、小学生5.6年ぐらいの時の運動会の行事でぐらいでしかやったことないです。
それから、去年北海道旅行に行ったとき、
ある飲食店で一緒に旅行に行った年配の方々が店内で阿波踊りを踊り出して、
周りのお客さんから注目を浴びていたのを思い出しました。
えらいやっちゃ、えらいやっちゃ、
ヨイヨイヨイヨイ、
踊る阿呆(あほう)に見る阿呆(あほう)
同じ阿呆(あほ)なら踊らにゃ 損 損!!
ヤットサー、ヤットサー
「本場の阿波踊りだ!」ってみんなが喜んでくれたのはとても嬉しかったです。
しかも道民の方たちも一緒に踊ってくれたりしました♪
私はどうも恥ずかしくて、手拍子しながら見ているだけだったのですが(^_^;)
見ているだけでもとても楽しかったです。
---------と、いろいろと話が脱線してしまいましたが、
こうして調べてみると、
北海道と徳島って意外と深いつながりがあったんですね
まさかアイヌ文化を調べる中で、北海道と徳島との歴史を知ることになるとは。
歴史を見ると、こういう意外な事実が知れるから面白いです♪♪
歴史を通して北海道を身近に感じることができました!
なんだか親近感が湧きます
今回はアイヌ語がもとになっていない北海道の地名の話、
というよりも徳島に関わる話になったので、
次回の更新では、北海道にあるアイヌ語の地名について書けたらなぁと思います。
イヤイライケレ!